前へ[ あー10月、そんでもって久々につらつらと。 ]
[ 祝えよ ]
次へ 
役者、演者たる者って、なんだろう。
引いては、芝居ってなんだろう。
これから私は答えのない思考の世界を文に起こしていきます。
この書き起こしすらも、役者として、何かを“感じる”という所からずれて、理論の世界に入ってしまうので、あまり意味のない行動だと思ってしまいます。
ですが、如何せん、私は全てを頭と心で想像し、創造できるほど成熟していないので、私は敢えてこの手段を使い、現時点の、葛藤している自分と向き合います。
まず、役者とは演じることが重要だというのは、間違いだと教わりました。
これは偉い事です。今まで信じていたものが一気に砂上の楼閣になったのですから。
「芝居とは演ずる事だ!役の気持ちになって、こいつだったらどんな言い方をするのか、どう動くのか考えよう!」
これは間違いだと、教わりました。
ギャップが必要なのだと。
「俺はこいつを全然可愛いと思わないけど、この役はこの娘を彼女にしていて、なおかつ好きでいる。なぜ?」
「俺もこいつは可愛いと思う。でも俺の可愛いと思うのと、この役の可愛いと思うのには必ず違いがあるはず。なんだ?」
このギャップが必要なんです。ひるまはひるまで在って、~~という人物ではないけれども、~~という役を担っている。
この~~に在って、私にはないもの、逆に私にあって、~~にないもの。
こういったものを見つけ出して、共に歩み寄る。
役を自分に近づけるのでも、自分を役に落とし込む訳でもない。
このバランスが重要。このバランスのためにギャップが必要。
そしてこのバランスなるものは、決して50:50ではありません。
役の方に重きを置くのか、自分の気持ちに重きが置かれるのか、それは決して等分などではないんです。
これは、体・動き・呼吸に使う力、心・気持ちに使う力、私の場合上記二項に加えて表情に使う力。
この三すくみの力も、もちろん33:33:33ではないのです。
この時は体に意識を置こう。ここは表情。ここは心と表情……
という風に、どこかで必ず、力の入れ具合が変わるのです。
これは、ペン先に入れる微妙な力、ピアノの鍵盤の打ち方、DDRのステップ……
古今東西、全ての物事に言えることだとも思います。というか今考えられました。
さて、「演じる」という事の危うさについて少し掘り下げましょう。
悲しいかな、師曰く今の芝居界は最底辺にまで落ちぶれ、腐りきっているとのことです。
これは初めて師とこの話をした時も、深く感銘を受けました。正にその通りだと。
地下舞台もいつの間にか仲良しごっこのお慰み大会、アニメやドラマの役者は型にはまった、自分の心とは裏腹の記号的な演技しかメディアに映りません。
笑う、怒る、泣く、驚く、恐怖する……言葉だけだと一元的ですが、その表現方法は千差万別であるはずなのです。
にも関わらず、同じような事しかできない。女優は泣けるか泣けないかで演技の優劣が決まってしまうような、そんな世界にいつの間にかなってしまっています。
なにもこれは芝居界だけの、対岸の火事ではないのです。芝居を、引いては人間を取り囲む“言葉”すら、変貌を遂げています。
言語学を修学する際に教授はこう仰られました。「言葉とは生き物だ」と。
そうです。言葉とは時代と共に変わっていくものです。
1582年に織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれ(たとされ)ました。
この時代、今を遡ること約430年前です。ぱっと見、長そうですね。
ですがこれを世代にするとどうでしょう。ざっと計算すると430年前は4代前くらいになります。
つまり、“私”の父の父の父の父です。“私”のひいひいじいさん、高祖父(こうそふ)と言います。
この、高祖父の時代の言葉と、今私たちが使っている言葉。見事に違いますよね。
古文とか好きでない限り、高祖父とは会話できませんw
さて、これが“私”の子の子の子の子、玄孫(やしゃご)と会話するとなると、もう我々では無理でしょうw
しかし、この場合の会話できないというのは、接続詞や助詞云々ではなく、単に名詞の理解度の問題になるでしょう。
さて、問題は会話する際のコミュニケーション方法です。
映画「猿の惑星」で現れる未来人、彼らは顔に何の情報も盛り込まず、テレパシーで会話をします。
喜怒哀楽も、全て口先、いや思考先で行われ、人間の持つ体躯からのメッセージを切り捨てています。
そしてこれは何も映画の中だけの話ではありません。
師は、小学生の“会話”から恐ろしい言葉を耳にしたそうです。
「あはは、そうだよねー『わらい』」
さぁ、対岸の火事でなくなってきました。驚くなかれ、現代の年端も行かぬ子どもたちは口から自分の感情を伝えている場合があるのです。映画の中の未来人がすぐそこまで迫ってきているようです。
コミュニケーション方法の一つである「表情」や「動き」といったものが排除され始めているのです。
これは現代に蔓延といってもいいくらいに普及しきった携帯電話・PCの影響にも因ると考えられます。
2、30年前まで遡ると、友達との待ち合わせや、調べ物等々、今よりも大変な過程がありました。
友達と遊んだ後、次の予定を立てないと最悪会えない。
ちょっと調べる事があるのに、わざわざ図書館に行かないといけない。
この過程が、携帯電話・PCによってものの見事に粉砕され、地球はその尺度を一気に縮めてしまいました。
ここにコミュニケーション能力の欠如の一端が隠されているのです。
「あ、遅刻しそう、メールすればいいや」
「あ、用事入っちゃった、携帯に電話しよっと」
と、気軽に日程が変えられる様になると、次の予定のために前日から何を気をつけなければいけないのか。電車の時間か、改札口か、待ち合わせ場所までの徒歩のルートか、それとも体調か……あらゆる労力がいらなくなります。
これが発展していくと「あぁ、また次があるから、今回はいいや」と、“後で癖”がつきます。
そしてこのメールもまた曲者。
「今日は楽しかったねー(*ゝω・)ノ」
なんて、あたかも自分の気持ちを表せたとなり“そう”です。
絵文字やデコ文字もそうですね。自分の気持ちを的確に突いて“いそう”です。
では、これが文通の時代からあったでしょうか。ないんです。
こんなツールを使わなくても、言葉で補えたのです。
更には会話でさえも、表情ですとか、所作に、自分の気持ちを載せる事ができたのです。
これを踏まえて、今は如何でしょう。
あなたの周りに、ちゃんと目を見て話してくれる相手はいるでしょうか。お互いあさっての方向を向きながら、声だけで喋ってはいないでしょうか。
一期一会、“次”というものの存在、昔よりも、だいぶ希薄になっているのではないでしょうか。
おっと、なんか諭し始めてますね。いかんです。この文はそんなのが目的じゃあないので。
とにかく、役者がそんな世界に身をやつしていては芝居も何もできなくなるのです。
表情に出ない、口先だけ、動きもちぐはぐ、芝居かどうかすらわからない。
もしかしたらこれはただ単に自己満足の世界を見せられているだけなのではないか。
そんな風にお客さんは思ってしまいます。
映画は見に行けるのに、芝居を見に行くのに手間というか、重い腰を上げなくてはならなくなってしまう感じ。
それこそが芝居界零落の一端でもあります。心のどこかで“芝居”“演劇”というものに魅力を感じていないのです。
残念ながら私はその今を生き、あまつさえ役者という“恥ずかしい職業”に就こうとしているのです。
しかしそのためには何から何まで改めなければならない、さもなくば役者として生きていけない、そんな窮地にいつの間にか立たされてもいます。
高校1年から始めた芝居の勉強が、何ひとつ役に立たず、立ったとして「こうしてはならない」という反面教師にしかなっておりません。
「これをやれば上手くなる」「これを気をつければOK」役者にそんなものはありません。
では何が必要なのか、
それは、人生です。芝居とは人生なのです。
こうも師は仰ってくれました。
役と自分のギャップ、これも自分という者が何者なのかがわかっていなければなりませんし、相手の人生すら垣間見る余裕が必要です。
言葉もそう。言葉とは生き物で、コミュニケーション方法が変わって行きつつも、昔はどうだったのか、今はどうなのか、これを知っているか知らないかで言葉の使い方が大きく変わります。
人間観察も、森羅万象の知識も、知恵・知覚も、趣味も、交際も妄想も食事も何もかも、全てが役者としての自分の糧なのです。
この糧を、役者とそれ以外とで同じ分量摂取すれば良いのか。それでは役者の存在意義が吹き飛びます。
最悪それっぽい素人を使えばOK、そんなものになります。
これは私がラジオで聞いた言葉なのですが、
「アーティストとは日々をストイックに生き、物事を多角的に捉えなければならない」
こんな様なことを言っていました。つまり、アーティストはいい意味で変人でなくてはならないのです。
これは役者にも言えることで、役者もいい意味で変人でなくてはならないのです。
こうして、日々を大事に生き抜き、キチンと“明日”というものを迎え、今日の繰り返しを作らずに努力研鑽を怠ることのない活動をして、その上で人生を豊かにしていき、芝居に還元していく。
芝居は、人生を映しだす鏡。その映し出されたものがどんな色や形をしているのか、私は今よりも映し出されているものを豊かに、美しくしていきたいです。